通訳をせざるを得なかったのは16才のとき

2011.06.18

今では決して珍しいものではない同時通訳も、昔は日本語と英語の構造があまりに異なるのでたいへん難しいといわれていました。公の場で通訳の仕事をしたのは、1955年の世界母親会議のとき。25才の私は、まだフランスのパリ大学に留学中の学生であり、しかも女である私が通訳に選ばれたのは、英語もフランス語も話せて、しかも現地に住んでいますからコーディネイターもできるという理由だったのですが、本当に会議の同時通訳などできるのかと心配でした。個人的には私の通訳歴は長いのです。終戦直後に私の家が進駐軍の将校たちに接収され通訳をせざるを得ないはめに陥りました。手真似足真似の通訳です。戦後の日本はどこも家族や友人、家を失った人がたくさんいましたが、私の家族は幸運なことに誰も欠けることもなく、家も焼けずに残っていました。しかしアメリカ軍が日本に進駐してすぐに我が家は、進駐軍将校の家として接収されてしまいました。敗戦とはこんな情けないものかと悲しんだことは今も忘れることはできません。いきなり、大勢のアメリカ軍人が門を開け、家の中に土足で入ってきて、「ここを没収するから、お前たちは1週間以内に家財道具を残して立ち退け」と言われたのです。こんな理不尽なことが許されるなんて。これが戦争なんだと子供心に思いました。結局行くあてのない私たちは、同じ屋敷の庭に小さい家を建てて暮らしました。かつて私が住んでいた家の中では毎晩のようにアメリカ人がパーティーを開き、食べ物がたくさんあって、着飾った女性がいて、楽しげな音楽が流れていてダンスを踊っているのです。その物質的にあまりに豊かな様子に、これでは日本が勝てるわけがないと思いましたし、これから、きっと世界はアメリカを中心に動いていくのだと確信しました。そして、そのアメリカ人が話す英語を身につけなければ、世界中から置いてきぼりをくってしまうと痛感しました。当時、英会話を習うのが流行していました。「カムカムエブリボディー」がラジオから流れ、英語ブームでした。社交ダンスも流行していました。私にとって幸い教材は身近にありました。接収したアメリカ人将校は紳士的で、敬意を持ってつきあってくれました。私と同じ年のベティー・ジェーンという娘さんと仲良しになり、毎日庭で遊んだり、教会やPX(進駐軍の営内にあった売店)などに連れていってもらいました。最初は、片言だった英語が、そうしているうちに少しずつ語彙が増え、彼らの言っていることを理解できるようになってきました。米軍の人たちも個人はみんな同じ人間でいい人だということがわかってきました。しかし日本は野蛮国と思っていたことは確かですし、現実、焼け出された日本人の生活は貧しかったのです。日本の畑でとれたものは生の肥料を使っていたので非衛生的と思っていたのでしょう。私の庭でとれたイチゴをプレゼントしても食べなかったとメイドさんが教えてくれました。自分の考えを英語で伝えられるようになった私はパーティーに招待されたり、ドライブに連れていってもらったりアメリカの生活を知るチャンスを与えてくれました。私の人生に大きな影響を与えたキリスト教との接触のきっかけを与えてくれたのも、このアメリカの中佐の家族です。戦時中、友人が空襲で亡くなっていますし、家を奪われたという怒りは消えるものではありません。けれども、アメリカが憎いという気持ちが、アメリカ人とコミュニケーションがとれるようになったことで消え、憎むべきは人ではなく、それをしかけた人なのだと悟ることができました。つい昔話が長くなってしまいましたが、英語を身につけ、かつての敵国だったアメリカ人と接し、彼らを理解したことで、私の人生は大きく変わりました。いや日本全部が変わらざるを得なかったのです。私は戦争をした日本はあまりにも世界を知らなかったと悟りました。日本以外の国を知りたい、自分の目で見て、文化や哲学、その根底の思想を勉強したいと思ったのは、このような機会が与えられたからということは否めません。私はアメリカに留学するよりヨーロッパに行き、西洋の文化を根底から知りたいと思っていました。英語を身につけ、世界中の人とコミュニケーションをとることで、あなたの人生だって、どんな風に変わるかわかりません。違う国に生まれ異文化で育った人たちとコミュニケーションをとり、お互いよりよく理解するための英語力を自分のものにしようではありませんか。

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